こんにちは、オフィス・ラボです。
オフィス・ラボはまだ若い会社ではありますが、一級建築士として長年多くのプロジェクトに携わってきた経験豊富なスタッフも在籍しています。皆さんご存知のあの建築も・・・!これまで携わったプロジェクトの中で生まれた「ケンチクこぼれ話」のご紹介です。
はじめに
竹中工務店に入社し定年までの40年近く、建築の設計に携わりました。その間、有楽町マリオンから東京ドーム、東京都現代美術館や新国立劇場など、その時々の話題性あるビッグプロジェクトに参画できたことはありがたく幸いでした。ビッグプロジェクトでは、その規模が大きくなればなるほど設計の人員体制もふくらみ、設計業務は、エリアや担当ごとの分業にならざるをえません。その一方、中・小規模のプロジェクトでは、建物の隅から隅まで一人で見渡すことができる反面、一人ですべての部位にわたる図面をまとめることになります。
それぞれ異なる体験を通して得られた、印象に残るプロジェクトを三つ選んで、ご紹介いたします。
1.光膜(ひかりまく)天井 誕生物語
全天候型多目的スタジアム/東京ドームは1988年に竣工しました。その膜屋根がインフレートした(膨らみきった)瞬間は感動的でした。関係者は前夜から現場に泊まり込み、各持ち場で加圧開始を待ちました。夜が明けるころから慎重に加圧が開始されました。長い時間をかけて少しずつ、少しずつ膜屋根がインフレートしていきます。外の様子が騒がしくなってきました。インフレートに気付いたマスコミのヘリコプターが集まってきたのです。
<日本膜構造協会の2016年総会資料より、講演者の許可を得て転載>
インフレートは無事成功しました。グラウンドに降り立って上を仰ぎ見ると、明るく白い膜が軽やかに浮いているようでした。この時目にした体験が、その5年後に担当することになる、東京都現代美術館の展示室の天井デザインに活かされることになるとは、当時は思ってもいませんでした。
当初の美術館展示室の天井仕様は当時見慣れた、格子状に組まれた「金属ルーバー天井」でした。ルーバーを見上げると、天井裏の設備ダクトや配管類をはじめ、蛍光灯の配列はまる見えなのです。そこで、東京ドームの白く明るい膜屋根を思い出し、「光膜(ひかりまく)天井」を美術館の展示室にも採用出来ないかと考えました。
私は旧知の大手繊維メーカーの番頭さんに相談しました。私の意図する実例が、海外も含めてご存じないか尋ねると、貴重な情報をくれました。「ありますよ、ルイジアナ美術館(デンマーク)で見たことがあります。」との答え。うれしいやらびっくりするやら。帰宅すると、妻にパリ経由でデンマークに行かないか?と誘いました。ちょうどその頃、二女はリヨンでフランス料理の実地研修中であり、長女の就職先の本社とショールームがコペンハーゲンにあったので妻の同意を得るのに好都合でした。
ルイジアナ美術館での光膜天井の確認は、旅の最後になりました。そこは休憩コーナーの一角のようなスペースで展示作品の有無も記憶に定かではないのですが、天井はまぎれもなく光膜でした。2尺幅程度の晒し木綿を縫い合わせた布が、少したるんで、蛍光灯の下部にぶら下がり、その両端部はボード壁に画鋲で留められているだけでした。その姿はたしかに光膜天井照明のコンセプトを直截素朴に表現していました。
気を取り直して庭に出ると、北海越しにスウェーデンの陸地がかすかに見え、白いプロペラの風力発電装置が青空をバックに美しく立ち並んでいました。機能的で美しい光膜天井照明器具の製品化の実現を心に決めました。
帰国後すぐに、設計事務所代表と現場作業所長の了解を得て、試作品作りを始めました。金属製の本体ボックスやワンタッチで開閉できる光膜枠の制作は、旧知の、キャンバス張り込みでは老舗のT商会のKさんが二つ返事で受けてくれました。同僚の現場監督さんは現場の一角に、3m超の高さに試作品の取付けスペースを用意してくれました。
試作で一番ご苦労をおかけしたのは、ルイジアナ美術館情報を下さった繊維メーカーの番頭さんです。蛍光灯の取付けボックスはなるべく浅くしつつも、下から見上げた時、布に蛍光灯のラインは見せない。布はもちろん不燃仕様で色味はニュートラルホワイト、等々の私の要求に応えてくれました。限られた工期内で、新製品の開発からの仕様変更を受け入れて下さった作業所長には感謝でした。
白い布がピンと張られた1メートル30センチ角の照明ボックスが整然と並び、ブリーズライン(空調吹き出し口)や設備機器類は、照明ボックス周囲のスリット底に目立たなく納めました。
<画像引用:東京都現代美術館HPより>
この光膜天井照明システムは特許申請が受理されました。そのためもあってか美術館のオープン前後には関係者の見学が、引きも切らなかったようです。その後、巷の新しいビルのエントランスやエレベーターのかごの天井にも採用例をよく目にします。東京国際フォーラムでは光膜壁まで出現しました。
余談ですが、東京都現代美術館の展示室天井の原設計が金属製ルーバーであったことは前にも触れました。それが突然特許付き新製品の光膜天井に変わったのですから、金属製ルーバーの受注を目論んでいたA商会の番頭さんは青くなったことでしょう。しかし一敗地にまみれたかに見えるA商会さんは、今やさらに洗練された光膜天井照明を世に送り出しています。
2.クライアントにめぐまれて
<画像引用:ニキ美術館 HPより>
ここでは「ニキ美術館」の建築主と私の設計二人三脚ぶりをご紹介いたします。いや、正確には私の同僚設計部員を含めた三人四脚でした。
建築主は、ファッションビル「パルコ」の生みの親、育ての親のM専務(当時。後の会長。)です。M氏から、ある日突然設計部の自席に電話があり、事務所に呼ばれました。(その数年前に、私は、M氏所有のテナントビルの設計を担当したので旧知ではありました。)おっとり刀で事務所に行くと、「那須高原に美術館を設計してほしい。」『会社を通してください。』「よしわかった。」のやりとりがあり、後日M氏ご夫妻が来社され、竹中の設計受託が正式にきまりました。
何はともあれ、M氏と一緒に那須の敷地を見に行きました。古くからの高級別荘地2区画分。四季折々の美しい自然が目に浮かびます。敷地全体にゆるやかな勾配があり、真ん中付近の小ぶりな池からはきれいなせせらぎが流れ出ています。
もうひとかたの建築主とも打合せがはじまります。美術館設立者・館長のM氏夫人・ヨーコ氏(故人)からは、立体造形作家ニキ・ド・サンファール(故人)とその作品の紹介をいただきました。それらの作品はまぎれもなくジェンダー差別を糾弾するアートでした。怒りのエネルギーを受けとめる内装は?作品の配置計画で外の緑を背景に生かせないか?といった思案がよぎります。
ある日M氏から、重大なデザインのヒント(設計与条件)をいただきました。「大小あるニキの収蔵作品をグループ分けしてみると、展示室の一つの広さは100㎡ぐらいが適当かな。」と言うのです。
一方、敷地は国立公園内にあるので、建物の屋根の形状は、勾配屋根とすることが法的に義務付けられていました。展示室においては、この2条件を満たし、かつ東西南北に連結しうる、「直交する切妻屋根を載せた一辺10mの正四角柱のユニット」を考案しました。
<当時制作した模型>
この展示室ユニットを必要数(六つ)、雁行(がんこう)型に配置して展示棟としました。展示棟と管理棟は渓流を挟んで切り離し、連絡ブリッジでつなぎました。
この平面レイアウトをまとめるまでに一番、時間がかかりました。M氏との打ち合わせは、週一の予定でしたが、足りない時は週末に、どちらからともなくFAXで(当時はメールがありませんでした)スケッチのやりとりが始まり、「今夜は、この辺で止めるか?」を相手に書かせるまでやりとりを続けたことは、今となっては懐かしい思い出になりました。
このようなクライアントとのやり取りは特異な例ではありますが、私はM氏から多くのことを学ばせていただきました。関係者各位のフォローのもと、1995年東京都建築事務所協会主催の東京建築賞をいただきました。
3.自作ギャラリーで自作展を開催
1984年に有楽町駅前に、複合商業施設・有楽町マリオンが竣工しました。計画敷地内にあった公道を移動し、建物を縦横十文字に分割して、その境界部分を一次避難ゾーンにするなど、かなり大胆な手法を取り入れた基本設計の後、私はその詳細設計の段階で、現場の設計室に入りました。
私の担当エリアは通称「朝日ゾーン」と呼ばれ、クライアントは朝日新聞社で、11階の朝日ギャラリーと12~13階の朝日ホールでした。朝日ゾーンの内装仕上げは高級で、床は特注ウイルトンカーペット、壁は外国産大理石本磨き、扉はブロンズ製の分厚い遮音扉でした。
いよいよ本題にはいります。以下は、私の高校時代の美術部同窓生が、恩師を偲んで編んだ『都立西校エコールドガマ画文集』から、私の拙文を引用したものです。
<『都立西校エコールドガマ画文集』>
『高校卒業後20年ほど経ったある日、高校時代の美術部の恩師である関口先生から、突然お電話をいただきました。(それはお亡くなりになる数年前のことでもありました。
「君も十一会(じゅういちかい)(同人会の名)に入りなさい」と、決して命令口調ではなく静かな物言いでしたが、有無をいわせぬひびきもあって、とてもビックリいたしました。恐れ多いことだと、始めは辞退申し上げたのですが、お話しを伺ううちに、それはなんと光栄なことであろうかと思い直し、喜んで入会させていただいたのでした。
人生って不思議なめぐり合わせがあるものだと、つくづく思いました。先生は「今年の十一会展の会場は有楽町マリオンの朝日ギャラリーです」とおっしゃるではありませんか。
その建物は、私が勤務する建設会社の設計・施行作品であり、そのギャラリーは、まさにかけだしの私が、汗と涙をにじませて設計を担当した所なのでした。以来五年間思い出深いギャラリーで、師の晩年を飾る十一会展に、私の拙い絵を同じ会場に並べていただきました。
会場に先生のお客様がみえると、いつも私を呼び寄せ、「この者が、ここを設計したのです」と、目を細めて教え子である私を紹介するのです。そんな時私は、気恥ずかしさとほんの少し親孝行をしたような気持ちになったものでした。』
<画像引用:有楽町朝日ホール HPより>
十一会創立会員の先生方のリタイヤの後、次世代メンバーで、会の名を樹(しげり)会と改め、通算30年間、有楽町マリオンの朝日ギャラリーで発表を続けることが出来ました。自分が設計したギャラリーで、自分の絵を、しかも恩師の作品と一緒に展示できることになろうとは、そのめぐりあわせに驚きと感謝の気持ちをおぼえずにはいられません。
4.私の履歴書/将来は漫画家か絵描きに
私は四人兄弟の末っ子で、小学時代は父が結核で入院中のため、生活保護家庭で育ちました。母は友達の家のお手伝いさんを掛け持ちでしたり、町の食堂の洗い場などで働き通しでした。
当時から私は絵を描くことが好きで、暇さえあればいらない裏紙を見つけては絵を描いていました。絵を描くことでは周りから一目置かれ、仲間からいじめられることは一度もありませんでした。将来は漫画家か絵描きになろうと思っていました。
高校1年の時東京オリンピックがありました。町にあふれる亀倉雄策デザインのオリンピックポスターに惹かれ、グラフィックデザイナーにあこがれた時期もありましたが、結局東京藝術大学の建築科に進みました。そこには絵描きやデザイナーのひよこたちがうろうろしていました。私は部員のほとんどが彫刻科だった相撲部に入り、まわしの締め方もおぼつかないまま東日本学生相撲選手権大会に出場しました。その後の顛末は、映画「四股踏んじゃった」の世界そのものでした。
竹中工務店で設計ひとすじ38年。定年退職して、いよいよ貧乏絵描きになるつもりでいた私は、ふとしたご縁で、大手の舞台美術製作会社に再就職しました。そこでは画家や彫刻家、大工、鍛冶屋の腕をもつ技術者集団が、次から次へとさまざまな舞台装置を作っていました。その様子を、子どもに返ったようなワクワクする気持ちで眺めることができた幸せな職場でした。
マンション管理士として、近隣の分譲マンションの“建替えを考える会”から学習会の講師を頼まれ、「後付けエレベーター」をテーマに、手製の模型を使って説明しました。建替えか、長寿命化かの選択は、もちろん区分所有者の合意形成にゆだねられますが、その決定プロセスに問題があるように思いました。
民間に限らず、行政が進めるまちづくりや公共施設計画にも、疑問を覚えることが多くなりました。一市民、一建築士として、地域貢献に努めるべきとの思いを強くしております。
最後に
現在私は、オフィス・ラボのファシリティデザイン部に籍を置き、仲間の進行中の図面を見せてもらっております。クライアントに恵まれ、有意なミーティングを重ねつつ、リーズナブルで魅力ある作品に仕上げていくクリエーターの喜びを共有させていただいております。